――起業の経緯を聞かせてください。
起業家の中には学生時代から起業する人、早くから起業を思い描く人も多いですが、私は全くそういうことはありませんでした。いまだに、まさか自分が会社をやるとは思わなかったなという感覚があるぐらいで。
新卒で広告代理店に入社して、同じ業種で転職して、そうなるとクライアントワークの経験が7年8年と積み重なってくるので、独立できそうだという感触が出てきた。幸い、手ほどきしてくれる人もいたので(現・ステイハングリー取締役の石村一樹氏)、30歳で会社を作りました。結構、淡々とした経緯かもしれません(笑)。
最初は吉祥寺のマンションの一室をオフィスにしました。当時は”(みんなの)一番住みたい街”でキラキラして見えたから、吉祥寺。そんな理由です。下北沢に住んで通勤していたので、吉祥寺に住むことはなかったんですけどね。
――起業してすぐ、ビジネスは軌道に乗ったんですか?
経営が危ういレベルの苦労は、最初から今まで、ほとんどなかったですね。独立した当初も、以前の会社でお付き合いがあったお客さまを中心に、わりと安定的に仕事をいただけましたし、常に新規営業も同時進行していたので。
それから、LINEのスタンプ事業が、創業当初は収益の柱になりました。私が会社員だった時代に、キャラクタースタンプの配信が始まったので、IP(知的所有権)を持つ会社に営業して、作品やブランドの公式スタンプをいくつか手掛けました。中でもアニメ「ハクション大魔王のアクビちゃん」のスタンプは反響も大きく、スタンプ事業に可能性を感じました。
当時、私がいた組織ではスタンプ事業に注力する方針ではなかったので、独立してから積極的に営業活動を。その頃には有料のスタンプも登場して、市場が広がっていくところでした。「ONE PIECE」や「ドラゴンボール」など、東映アニメの人気作のスタンプを世の中に送り出せたのはいい思い出です。ドラゴンボールはドンピシャ世代なので、『クリリンのことかーーーーーっ‼』スタンプが出せて感無量でした(笑)。
――マンションの一室時代ということで、どんな苦労譚が聞かれるのかと思いましたが、堅調なスタートだったんですね。
振り返ってみると、“一人商店”ができたのがよかったのかなと思います。新卒で入社した会社も、転職先の会社も、超大手企業というわけではなく、一つの案件を最初から最後まで自分の手でやり抜くスタイルでした。これがもし業界1位2位の大企業だったら、工程ごとに担当部署・担当者がいたはずで、分業制、チーム制での仕事では経験できることも限定的になっていただろうと思います。
会社に勤めていた時代の経験が生きて、当社では4大マスメディアへの広告出稿やOOH(屋外広告)、イベント運営、Web制作からSNSキャンペーンまでも全てひっくるめた、リアル×デジタルの総合的なプロモーションのプランを提案できるし、ワンストップで業務の全体を手掛けられます。クライアントからすると、1つの案件で窓口があっちこっち分散することがないし、何でも聞けばすぐに答えが明確に返ってくる。そんなスピード感のある対応、フットワークの軽さがうちの身上になっています。
――事業が軌道に乗ってくると、マンションの一室では手狭になってきますよね?
吉祥寺では3年やって、それから六本木に移りました。以前の職場の先輩が六本木で美容関係の会社を経営していて「プロモーションを任せたいから、うちのオフィスを間借りしないか」と誘ってくださったのがきっかけです。
何しろ同じオフィスに入っていたので、商品を作る現場を間近に見て、バックグラウンドまで理解しながらブランディングにも関わるプロモーションの仕事ができたのは貴重な経験になりました。異業種の辣腕社長たちのとんでもないスピード感を共有しながらの仕事も、後にも先にもない経験でしたね。ただ、うちの社員の負担が大きくなっていたので、2年ほどで間借り生活は解消することになりました。
――そこから今の新宿のオフィスへ。社員を尊重しているのですね。
いや、あのときは社内が少々疲弊していたので、そんなキレイなことではないですけど……。私は人間関係に対する基本的な考え方が、少し人と違うのかもしれません。
社員に限らず、人間関係っていつか終わるものだと思うんです。実際、3年もあればよく会う人の顔ぶれは結構、変わりますよね。例えば、クライアントで異動があってカウンターパートが変わることもあるし、私の周りには若い人が多いので、ライフステージが変わって仕事を離れる人もいる。
ちょっとドライな考え方なのかもしれないけど、終わる、変わると思うから、(社員の属人性の高いスキルや仕事ぶり、仕事相手の厚意などに)甘えない、もたれかからない、という意識でいます。でも、そういう意識でいると、縁が続いていくのが不思議なところで。うちは会社設立から今まで、社員が一人も辞めていないんですよ。
――一緒に仕事ができる時間を当たり前に思わないことで、一期一会のような考え、態度につながっているのかもしれませんね。取締役の武田周之(かねゆき)氏とも長いお付き合いだとか。
17年になりますね。私は社会人1年目から夜間は下北沢の居酒屋でアルバイトをしていて、そこに大学1年生だった武田もバイトに来ていました。4歳違いなので、大親友とかではないけど、普通に仲は良くて。
武田が大学3年生になって就活を始めたときに、私が転職した会社に誘ったら見学に来てくれました。そのときは結局、武田は別の会社に就職するんですけど、3年経って「(大西の勤めていた会社に)ついていってもいいですか?」と。それで、配属先は別ですけど同じ会社で働くようになりました。
私はそれから1年経たずに起業したんですが、5期目ぐらいでまた武田が「ついていってもいいですか?」と言い出して(笑)。「いや、絶対に茨の道だよ」と言ったのに、うちにジョインしてくれて今に至っています。
バイト先で知り合った人も、以前の勤め先で知り合った人も、何かの案件でパートナーになったり、あるいはお仕事をいただいたり、なんだかんだ、お付き合いが続いたり、途切れたと思ったものが復活したりするんですよね。うちは“人で活きている”会社だとつくづく思います。
――大西社長は目下、クラフトビール事業の立ち上げに奔走されていますが、会社の創業事業であり主要事業である広告代理店業への思いを改めて聞かせてください。
苦しい時代だと認識しています。景気はもうずっと停滞していて、ちゃんとモノが売れた時代は過去になりました。また、誰もが日常的にSNSを使い、SNSから情報を得るのが当たり前になって、企業発信の広告は相対的に影響力が弱まっています。われわれもこだわりを持って提案し、誇りを持って事業に取り組んでいますが、昔に比べれば、広告ビジュアルをうっとりと眺めたり、CMを話題にしたりする人は減っていますよね。もともと“推し”がいて、その推しが出ている広告に沸くことはあったとしても。
広告の作り方も変わってきました。デジタルマーケティングが広く普及した分、人間の考えが介在しないまま作られる広告が増えているように思うんです。データを分析すると、この路線が受け入れられやすいとか、こうするとビューが伸びるとか、データをもとに安易に結論を導いて作られる広告も一部にはあります。
私はデータが示唆することも大事にしながら、自分で考え抜くことを基本に、仕事をしてきたつもりだし、そういう仕事のやり方を次世代に伝えたいと思っています。われわれより上の世代はそれが当たり前でやってきて、私たちがおそらく、そのやり方を貫いてきた“最後の世代”のような気がするので、責任を持ってバトンタッチしたい思いがあります。
広告代理店業がわくわくできないものになって、例えば業界の若手が「(他業種の)グーグルいいな」とか「本当はデータサイエンティストになりたかった」とか思いながら働くようになったら、それは当人も辛いだろうし、広告業界にとっても不幸なことだし。われわれは広告で創業して、広告業に愛もキャリアもあるので、広告を仕事にする楽しさとか、しっかりアウトプットを考えて作る面白さを、次世代の若い人たちに伝えていきたいと思っています。
――大西社長の話には「次世代」「若い人」という言葉がよく出てきますね。
当社は私を含めて3、4人が30代であとはみんな20代です。私が知る限り、新しいエンタメ文化はだいたいが10代の子たちの中から生まれているので、やっぱり若い感性を信じたい。
若い人たちの感性から出てきたものを形にして、(クライアントの)上の世代に提示していく、ビジネスで決定権を持つ年配層向けに通訳して話を持っていく、われわれはそういう役回りだと思っています。
権限もどんどん委譲して、若い経営者を年上世代がしっかり持ち上げる形にするほうが、会社はうまくいくだろうと思っていて。だから、若い人たちをエンパワメントしたい気持ちがすごくある。
われわれだって下北沢の居酒屋で皿洗いをしていたけど、ちゃんと会社員をやって経験を積んで、今では会社を立ち上げて10年目に入ろうとしている。学生時代から起業を考えていたような特殊な人物ではなくて、わりと普通の私たちがやれている。だから若い人、全然できるよ。そんなふうに言いたいですね。